痛みの先にあるのは、きっと無だ。単純に痛みを感じなくなるわけではなく、それが積もりに積もって何も感じなくなるほどに麻痺して行く―だからきっといつか必ずこの胸の痛みも消えてなくなるのだ。…それは少しの語弊を孕んでいるけれど、己を騙し誤魔化し続けるにはそれでいい。例え偽りでも同じことをずっとずっと暗示のように心の内で紡いで言い聞かせればいつしかそれは現実となるから。だから痛みを通り越しジクジクと不快感ばかりを残すそれを無視して完全に感じなくなるのを待ち続けていた。











重くなった瞼はきっと赤い。鏡を見なくとも、もう解っていた。マスカラもアイラインも綺麗に落ちてしまっているに違いない。…時折頬を伝う雫が黒かったことからそれがうかがえた。…それでもまだ、鏡をみたらきっとお化けみたいねなんて考える余裕がある事には驚いた。引きつるようにあがる口角と頬骨が浮かべるのは、勿論心の奥底から純粋に浮かぶ笑いではなく最早自嘲とも呼べるそれは傍から見れば道化にしか見えないのだろう。



そもそも、天からの慟哭とも呼べる位の豪雨の中、傘も差さずにたたずんでいればそれだけでも十分滑稽なのだろう。人通りのほとんどない裏路地とも言えど、時折通る人影はやはりぎょっとしたように遠目に見ていくか物珍しげに通り過ぎていく。それでも、ここから離れたくはなかった。好奇の目には慣れているから。…しかし、別段場所はどこでも構わなかった。この叩きつける雨と、暗闇さえあれば、どこでも。



「君、何してるの?」



暗闇の中から突如現れたのは手にした傘、そして髪からつま先まで真っ黒な男だった。勿論男自体が黒い訳ではない。黒髪なのは日本人特有のそれだとして、黒い衣服に身を包んだ男が不遜な笑みを浮かべて言ったのだ。



「…わた…し…?」

「君以外に誰がいるっていうのさ。俺がビルの壁とかそこのゴミ箱に話しかける様な気違いに見える?だいたい、こんな大雨の中で傘も差さずに突っ立っている君の方が十分に怪しいよ。その辺は自覚してるかな?それにさ、都会って言っても夜中の、しかもこんな薄暗い裏路地に一人でいたら襲ってくださいとでも言わんばかりの自殺行為だよね。…もしくは、それよりもアンダ−グラウンドな世界に興味でもわいちゃったのかな?」

「別に…」

「なんてね、冗談だよ。君がなんでここにいるのかも、どうしてそんな風に瞼を赤く腫らしているのかも…俺は全部知っているよ…そんなに怪訝そうに睨まないでよ。俺は情報屋だから知ってるだけさ、君の事を、ね」



何を言うのだろうか…とも思わなくもなかった。…だが、同時にその手に乗ってもいいと思う気持ちも存在することは事実だった。それに気付いたのか否かは解らぬがまた一歩近付いて、優しい声音で男は言う。キャンディにも似た甘い言葉を巧みに転がして。



「大丈夫、心配しないでよ。別に取って食べちゃおうって訳じゃないよ」



それでもその赤い双眸には笑みなぞ何処にも含まれてはいない。釣り目めがちの細い切れ目が見下ろすようにこっちを見ている。このあとの反応に困って考えあぐねていると、正しくボタボタと表現できるくらいの大きな雫が伝い落つるのも気にせずに男が手を差し出した



「俺は折原臨也。新宿で情報屋をしてる。もしよかったら、君の力になりたいんだ」



差し出されたその手はとても綺麗だった。それは一般的に言う男性のそれのイメ−ジと偉くかけ離れていて日焼けなどしていない真っ白なそれだった。可笑しな話だと笑われるかもしれない。それでもその手は地獄に落とされた細い蜘蛛の糸の如く、縋るべきものに見えたのだ。…勿論力になりたいというその言葉を信用すべきでない…否、寧ろそれ以前にその言葉すら胡散臭いとわかっていたのにだ。



「私は…」

「いいよ、言わなくても知ってるからね」



引き寄せられてバランスを崩すと、軽い衝撃とともに今まで身を打っていた雨から解放される。気付くと引き寄せた腕の対の手で握られる傘の下にいて、しかも折原臨也と名乗った男の腕の中にいた。「ちゃん」と、耳元で熱い吐息がかかるのと同時に男が自身の名を紡いだ。



…もしかしたら、その時に魅せられたのか。否…それよりも、出会った瞬間に既に心を奪われていたのやもしれぬ。…只、この未知の男の手を取ればこの現実が変わるのだという純粋なる興味。そして、ほとんど麻痺して痛みすら殆ど感じぬ感情は、最早危険を察知することすらも鈍らせていた事が最大の要因だろう。痛みが消えることを望んでいたのに、それが現実から己を遠のかせる結果となったのだ。それでも、その時の自身はそれらをすべて受け入れた上で、私は折原臨也の手を取った。















それはまるで心髄を侵すような



















臨也を信奉する子ってこうやって生まれるんじゃないかと思ったんです。
blogより名前変換部分を入れて再録です。
[20100610]